Gallery item number 14

「さまよえるオランダ人」(リンク)

圭子叔母の作品には署名が無い。昔、どうしてなのか訊いたことはあるのだが、納得する返事はもらえなかった。ただサインはしたくないのだと。

絵の題名も必要ではない、観た人が感じるままに想像してくれたらいいと言っていた。それでも展覧会に出すのに無題では困るので、「作品Ⅰ」とか「ある場所」などとつけていたようだ。

とは言っても、音楽や文学に造詣が深かった叔母は、その片鱗が窺える題名も多い。

(姪A)

Family photo #5

写真中央の両親の間に立つ女の子が河合圭子(1930年頃撮影)

圭子叔母は「尊敬する画家は坂田一男じゃ」とよく話していた。坂田一男が何者かまったく知らなかった当時の私はただ聞くだけだった。

坂田一男は岡山出身のキュビズムの洋画家で、圭子叔母に大きな影響を与えた。画風だけでなく、坂田一男の境遇(祖父が蘭方医で父も医師という医家の家に生まれたこと)に圭子叔母は自分を重ねていたかもしれない。圭子叔母の祖父は池田藩の藩医であり父も医師であった。

(姪B)

Gallery item number 40

木炭画 (リンク)

圭子叔母は自分の描いた作品に執着せず、サインも制作年も入れなかった。生前「叔母ちゃんの絵、どうしたらいい?」と聞いたことがある。返ってきたのは「全部捨てりゃあええ」。だからこの美術館の公開は叔母の本意ではないかも知れない。

このほど40代の頃描いたと思われる木炭画一点を見つけた。ミロのビーナス像が座敷に置いてあり、なんだか似つかわしくない調度品だと子ども心に思ったものだ。

木炭画を捨てずに残していた叔母の心中を勝手に想像し、この美術館公開を許してもらうことにする。

(姪B)

Gallery item number 38

クレヨン画のアキラさん (リンク)

河合圭子美術館の収蔵作品40点のなか油彩画が多く水彩画も数点あるが、異色なのはクレヨン画の一点である。

チラシのウラにクレヨンで描いた絵。圭子叔母は子ども向けの音楽番組に出ていたアキラさんがお気に入りだった。テレビを見ながらささっと描いたもの。

圭子叔母はすぐ処分するつもりでいた、いわば落書きのようなもの。近所に住む兄夫婦が持ち帰って大切に残していた。アキラさんとは宮川彬良氏のことである。

(姪B)

Gallery item number 24

無題(夜Ⅰ) (リンク)

あの年代の人達の例に漏れず、叔母も戦争中の体験談を話すことはあまりなかった。ただ一度岡山空襲の時のことを聞いた。爆撃を逃れ市街地から逃げてきた人たちが、その当時外科医だった祖父に助けを求めたという。表の庭が怪我人であふれ、女学生だった叔母も治療の手伝いをしたらしい。当時はもう麻酔薬も無く、泣き叫ぶ患者さんの体を押さえて手足の切断をしたとか、私には想像を絶する体験談だった。

(姪A)

Gallery item number 34

無題(オーケストラ) (リンク)

圭子叔母はクラシック音楽にも造詣が深く、レコード、カセットテープからブルーレイなど使っていた。マリアカラスが大好きで、彼女の歌が聴ける時代に生まれてきたことが幸運だとよく言っていた。叔母にオーケストラの「総譜」と言うものを初めて見せてもらった。そんなものが存在することさえ私は知らなかった。どう考えても私の知識が貧弱過ぎて、話相手にはさぞかし張り合いがなかったことだろうと、今になって申し訳なく思う。イタリア語のオペラのアリアを聴きながら歌詞を追っていた叔母の歳を私はとうに超えてしまった。

(姪A)

Gallery item number 20

自画像Ⅱ (リンク)

私が高校と大学時代は、私の家族が母屋、祖母と圭子叔母が離れという半同居生活だった。渡り廊下でつながってはいたが、お互い適度な距離を保っていたし、そんなに頻繁に行き来があった記憶はない。

叔母はまだ40代で洋服や装身具も洒落たものを持っていた。エルメスのスカーフや森英恵のドレスなど私にとっては憧れだった。叔母はモデル体型だったわけでもないのに、着こなしが決まる人で、私の方が若いのにこの差は何だろうと落ち込んだものだ。色の組み合わせのセンスなど自分のスタイルというものを持っていた人だった。

(姪A)